未分類

YouTube新動画:ヴァルトシュタイン!

YouTube上でワルトシュタインの動画が公開されました。

去年2022年11月18日に東京の浜離宮朝日ホールで収録しました。コンサートのプログラムには以下のような文章を書きました。

 ヴァルトシュタイン。献呈されたパトロンの苗字が第21番のソナタの副題となった。Waldは森、Steinは石であるから、森石さんとでもいったところか。この名前の意味が音楽の内容とは関連がないのは当然のことであるにせよ、意味深長にも感じられる。ドイツの深い森の奥で露に濡れて輝く石。非常に華やかで演奏の難しいことでも知られる曲であるからまるで技巧的な作品であるかのような演奏も聴かれるがそういう作品ではないようだ。冒頭の和音の連打にはスタッカートは書かれていない。下降するバスのラインが共通する月光の第3楽章とは全く違う世界感である。多用される半音階のパッセージは技巧的な装飾ではなく、何か曖昧な、神妙でもある表現がなされていると考えるべきである。意外な転調、多用されるナポリの和音は衝撃ではなく、深い森への誘いのように聞こえる。

 当初は3楽章のソナタとして計画され、第2楽章として書かれた曲は今では独立した作品、アンダンテ・ファヴォリと呼ばれている。というような史実はその曲を今日は演奏しないのであるから考慮する必要はない。チェルニーによって命名されたタイトルのファヴォリという言葉は、イタリア語の好意とでもいった意味のファヴォーリという言葉ではなく、お気に入りという意味のフランス語である(から最後のリにアクセントがある)。森石さんに捧げられてはいるがこのソナタは何やらフランスとの縁もあるようである。このソナタのオーロラというフランスでの渾名は、第2楽章主部のロンド主題、長いペダルの上で弧を描くように奏でられる旋律によく似合う。すでにテンペストソナタでも長い旋律全体にひとつの長いペダルが見られ、またピアノ協奏曲第3番第3楽章のホ長調でロンド主題が回想される箇所にも長いペダルがある。このロンドにも主和音と属和音が濁ってしまうのも構わず4小節や8小節に及ぶ長いペダルの指示がある。昔のピアノはペダルで残る音が短かったということもあるかもしれないが、ここではペダルが一つの表現として示されているのではないか。ペダルによって長く引き伸ばされる音のみならず、ペダル記号そのものに意味が与えられているようだ。

 そもそもベートーヴェンの音楽は聴覚のための芸術ではない。まるでパラドックスのようであるが私は真面目である。彼は耳に心地良かったり心地悪かったりすることを考えてはいなかったし、美しい響きを求めてもいなかった。ここでの「美しい」は醜いも含む、美を基準とした価値観といった意味で書いてみているが、ベートーヴェンの音楽の基準は美ではない。それはベートーヴェンに限らない。大作曲家たちは、偉大な作家や画家と同じく、世界を見る目を変え、意味を与えた。冒頭の蓮見の言葉*に戻ると「視線」を変えることで「風景」をも書き変えたと言える。ベートーヴェンの曲を聴いた後の私たちは世界を違う耳で聴くようになる。ちょうどドストエフスキーを読んだ後の私たちが違う世界観を持ち、フランシス・ベーコンを見た後では世界が違って見えるのと同じように---。

*プログラムノーツの冒頭では蓮實重彦の『表層批評宣言』に収録された「風景をこえて」から以下の文章を引用し考察した。

 解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれ自体が物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がたがいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。