音楽音楽について

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の楽譜の問題について

先月梅田俊明氏指揮N響とベートーヴェンの3番のピアノ協奏曲を演奏した。この曲の楽譜にはさまざまな問題があり、ここに書き出しておこう。

まず第1楽章は4分の4か2分の2かという問題がある。自筆譜、初版をはじめ全ての権威のある楽譜は4分の4で、原典版も4分の4であり、私も4分の4だと考えている。

自筆譜第1楽章冒頭
初版ピアノパート譜第1楽章冒頭

パウル・バドゥーラ・スコダ の『ベートーヴェンの5曲のピアノ協奏曲の楽譜 および演奏に関する諸問題」に関して 』という1983年の論文の今井顕氏の日本語訳を読むことができる。多くの示唆に富んだ指摘を含む非常に意味のある論文で、このような貴重な文章を公開されていることに心より感謝したい。(http://atwien.com/mwbhpwp/wp-content/uploads/02PBS_Beethoven-Klavierkonzerte.pdf

第3番の協奏曲については開口一番、

¢ (アッラ・ブレーヴェ)であり、C(四分の四拍子)ではない。

とある。根拠を示していただいていないのが非常に残念である。1862年に出版され最も多く実演に使われてきたと言われるブライトコプフの楽譜はなぜか2分の2になっており、1924年に出版され幅広く普及されたオイレンブルクのミニスコアも2分の2拍子であったことが2分の2であるとされる発端なのかもしれない。

ブライトコプフ1862(ドーバー)第1楽章冒頭

ピアノパートには非常に多くの16分音符のパッセージがあるので4分の4でとても自然だが、オーケストラには弦の刻み以外にはごく稀にしか16分音符はなく、2分の2でも不自然ではないのかもしれない。かもしれないばかりで申し訳ない。

第1楽章の強弱記号も非常に興味深い。呈示部、展開部、再現部、それぞれピアノの下降する音階でフォルテのオーケストラに移っていく形であるが、その直前までオーケストラはピアノのまま、ピアノは呈示部再現部ではフォルティッシモになる。展開部ではピアノのクレッシェンドに対してオーケストラはディミヌエンドになっている。

今回梅田氏と楽譜通りに演奏するということで意気投合し、ピアノはフォルテだったりクレッシェンドしたりしていてもオケはピアノで演奏しました。聴いていただいた方には楽譜通りでも全く不自然でなく聴こえることが分かっていただけたと思いますが、多くの演奏ではオーケストラもクレッシェンドをしたり、楽譜はピアノのままであるのにどこかからはオーケストラもフォルテになっていたりします。そもそも当時のピアノの音量が今のピアノよりも小さかったことがオーケストラの音量を小さく指定する原因であるのかもしれません。例えばメンデルスゾーンの室内楽などではピアノが先にクレッシェンドしてその後弦楽器がクレッシェンドをするという指示が見られます。ブラームスでは逆に弦楽器が先に大きくなり始めた後からピアノもクレッシェンドすることが多いと思います。ピアノの音量が少しずつ大きくなってきたためかと思われます。が、それだけではなくて、フォルテの音色、ピアノの音色という違いもあるので、書かれている指示を守りつつ、どうなっていくか、試してみるまで分からない。今回の梅田氏N響では非常に有意義な経験となりました。

第2楽章は第2小節の音形に議論があります。

先にも引用したスコダの論文には、

旧全集に印刷されているリズム分割がベートーヴェンの意図を正しく再現していると思われる。ベートーヴェンが計算に強ければ、冒頭のふたつの音に架けられている譜尾が16分音符ではなく、冒頭の音が付点32分音符として書かれるべき事に気づいたに違いない。

とあるがその根拠が挙げられていないのは残念なことである。この音形は作品27の1のアダージョとほぼ同じであるという指摘をスコダがどこかに書いているとベーレンライターの注釈書に書いてあるけれどその原典を読んだことはありません。音の並びは同じだが、それだからといって作品27の1とは和声も違いテンポも状況も違うので一概におなじ音形であるからここでは書き間違えたのであるとは言えない。

Op.27-1 Adagio 初版 冒頭

例に漏れずブライトコプフもこうなっている。

ブライトコプフ1862(ドーバー)第2楽章冒頭

こう弾かれることが多いのも事実ではある。しかし、自筆譜は単に付点8分音符と16分音符で書かれており、さらにその下にはその変奏の形があって、最終的な音形への途中経過を見ることができる。

自筆譜第2楽章冒頭

この曲の残されている自筆譜はまだ作品として完成していない状態のもので、印刷されるために書かれたものではなく、読みにくいが、示唆に富んでいる。この箇所ではベートーヴェンはまず付点8分音符と16分音符を書き、その後で拍の後半を装飾していったと考えられるので、初版のリズム分割は正しいと私は考える。

またこの箇所には長いペダルの指示があります。

スコダの論文には、

この3小節の上方に “senza sordino e pianissimo” と書かれているのは、これらの小節が混沌としたペダルの響きのなかで弾かれるべきことを意味している。第4、6、10小節などにある “con sordino” の指示はベートーヴェンによる。チェルニーによるとベートーヴェンはこの協奏曲初演の際にペダルを踏み変えなかったが、状況に応じてペダルを踏み変えることも念頭に置いていたことがうかがえる。

とある。主和音も属和音も旋律の半音の音程も全て一つのペダルで演奏したというのは驚くべきことである。音がほとんど持続しない楽器でかなりの弱音あれば可能なのであろうか。ベートーヴェンの使う “Sordino” という表現は彼ならではのもので、弦楽器の弱音器をイタリア語でソルディーナ(女性形)と言い、ピアノのダンパーのことをベートーヴェンはソルディーノ(男性形)呼んでいたようだ。ベートーヴェンのペダルについては回を改めていくつかのソナタを取り上げて論じてみたい。

第3楽章の259小節にも16小節に及ぶ長いペダルがあるが、ここは例えばワルトシュタインのロンド主題のように独特の響きを求めていたと考え、踏み換えずに演奏した。

初版ピアノパート譜第3楽章251小節

その直後、288小節はブライトコプフでフォルテと書かれているためか多くの演奏でフォルテで弾かれているが、自筆譜にも初版にもここで強弱記号が書き込まれてはおらず、259小節からの幽玄なというのか神秘的な響きをそのまま保ってロンド主題の再現まで持っていくのが、そのように演奏しているのを聴いたことはありませんが、最も素直に楽譜を読んだらそうなるのではないかと考えます。続くロンド主題の再現にスフォルツァートがついていないのも、予想外に静かに入ってくるためではないでしょうか。

初版ピアノパート譜第3楽章286小節
自筆譜第3楽章285小節
ブライトコプフ1862(ドーバー)第3楽章288小節

ピアノ協奏曲第3番の楽譜について、慣習的な演奏とは細かく違う点をいくつか書いてみました。

クラシック音楽は楽譜を媒体に伝えられるもので、そのように作曲家も考えて書いていたと考えており、できるだけ多くの原典や新しい研究に目を通し、演奏に活かしていくべきだと思います、とは自戒の念を込めて書きました。

 

譜例はペトルッチ・ミュージック・ライブラリーから拝借しました。https://imslp.org/wiki/Piano_Concerto_No.3%2C_Op.37_(Beethoven%2C_Ludwig_van)

5月の日本でのコンサート情報

2023年5月14日札幌 ザ・ルーテルホール ピアノリサイタル

2023年5月21日大阪 ザ・フェニックスホール ピアノリサイタル

2023年5月27日東京 サントリーホール・ブルーローズ リサイタル

演奏曲目
ベートーヴェン作曲
ピアノソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2「テンペスト」
ブラームス作曲
ピアノのための6つの小品 Op.118
シェーンベルク作曲
6つのピアノ小品 Op.19
リスト作曲
超絶技巧練習曲集第 11番「タベの調べ」
パガニーニ大練習曲第3番「ラ・カンパネッラ」
愛の夢-3つのノクターン
ワーグナー作曲リスト編曲
イゾルデの愛の死